吉田兼方『釈日本記』唯一宗源-仏道
2008-06-04 Wed 13:45:51
古くは鎌倉時代中期に始まるが、室町末期の兼倶によつて大成した。吉田家は元
は占部(うらべ)と称する古くからの神職
かなり理念的な神道者で、「唯一神道」などといふことを標榜した
」(日本書紀聞書)と説いてゐることからも明らかなやうに、多神教の象徴と
して国常立尊を措定してゐるわけである(「象徴天皇」の考へ方にも通ず
るものがある)。
室町末期の吉田兼倶(かねとも)。
元本宗源神道・唯一宗源仏道と言う。これは、縄文「唯一仏道」になる
神道とは多神教である諸々の神々シュメールそのもの神
神道は、何れも卜部家から見て異端であって、之等に対し吉田家に於いて
立つる所の神道を元本宗源神道と云うのである
この唯一神道を更に顕露教と隠幽教との二つに分ける
先代旧事記、古事記、日本書紀(之を吉田神道では三部本書と云う)に
依って、天地の開闢、神代の元由、王臣の系譜等を述ぶる
三部神経とは天元神変神妙経、地元神通神妙経、人元神力神妙経の事であると云ふ。
此の内場を更に萬宗壇と諸源壇との二部に分つ。之れは眞言宗の方の金剛界
胎藏界の雨曼茶羅に依つて立てたものである。 陰陽の原理を説く縄文式
●萬宗壇と諸源壇との二部に分つ●
此の三神に対して各々妙壇が設けられる菩薩信仰の事 仏壇いう
尚兼倶の書いた神道大意には、妙法要集に見えた読の要鮎を取つて其の根本を
示し且理論的に之れを説いてういる。
これは天ト朴に反した別の方法を取り入れていて北条政権に沿っているので
此れまでの,古代日本未解決を招いている
十二因縁とは無明、行、識、名色、六處、贖、受、愛、取、有、生、老死
の過現未に亘る因縁を云ふ。
吉田兼好(卜部兼好,1283生)
正平5年(北朝では観応元年,1350)4月8日、「徒然草(つれづれぐさ)」の作者
として知られる吉田兼好(卜部兼好,1283生)
。(過去帳に
もとづくものであるが、近年この従来の説を否定する意見も出てきている。
それによると兼好は少なくとも1352年にはまだ生きていたらしい)
元寇をしのいだ名執権・北条時宗が1284年にわずか34歳で亡くなると、
鎌倉幕府は音を立てるように崩壊していき、50年後の1333年後醍醐天皇の許
で建武中興が成立します。
1324年は正中の変があった年で、兼好はその後の鎌倉
幕府の倒壊の状況をずっと見て、世の無常を強く実感したものと思われます
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-kama/kenko.htm
室町時代の吉田兼倶はこの立場を継承し、神本仏迹の立場から儒教、道教の
理論などもとりこんで吉田神道を樹立する。
江戸時代に確立する吉田家による神社、神職の組織化も、兼倶によって
はじめられた。
取り仕切っていたのは神道の裏返しになろう
今日迄日本そのものが不明確になった原因であろう、これは天孫に対する
怨みがあったのであろう
※ここに表わされていた
妙本寺を中興した日倶(にちぐ)という僧侶が、吉田兼倶と論争をして
それを打ち負かしたため、兼倶がこの堂を寄進したという
吉田兼倶は本地垂迹説と対立する唯一神道の提唱者。)妙本寺(岡山県賀陽町)
http://www.sukima.com/14_sanyou01_07/01myouhonji.htm
妙本寺はかつて「西の身延」と呼ばれた日蓮宗の名刹だという
「宝基本記」
反本地垂迹説は、吉田兼倶(一四三五〜一五一一)の著わした「唯一神道名
法要集」(兼倶より一七代前の遠祖卜部兼延の著作に仮託されている)に至
ると、「神を以て本地と為し、仏を以て垂迹と為す」との明確な断言によっ
て示されるようになる
思想は、兼倶に初めて見られるのではなく、元弘二(一三三二)年、卜部氏
(吉田氏の元の姓)出身の天台僧慈遍(生没年不詳、吉田系図では『徒然草』
の作者兼好の兄)の書いた『旧事本紀玄義』(『続々群書類従』第一「神祇
部」)に、早くも「如来ハ既ニ皇天ノ垂跡為リ」(巻第一)「神宣西天ノ仏
ヲ指シテ以テ応迹ト為ス」(巻第五)と見えていたのであった。
卜部家の兼方(生没年不詳、鎌倉中期の人、懐賢ともいう)の編集に成る
『釈日本紀』』(『新訂増補国史大系』第八巻)にも、既に「大日本国ト
ハ。真言教ノ大日ノ本国ノ心ナリト云々」(巻五述義一 神代上)と記されている。
これは誤りであり策略されているのが見られるので偽書にあたる
その講筵に列した貴族たちの関心の的が神代紀であったという事実は注目に値する。
としているhttp://www.jp.tku.edu.tw/japanese/7/P54.htm
「唯一神道」「元本宗源ノ神道」と称したのである。 は新作という事
吉田家所伝の”唯一神道
吉田兼倶(かねとも;1434-1511)で、主著は『唯一神道名法(みょうほう)
要集』。それによると、吉田家所伝の”唯一神道”こそが、日本固有の神道であるとする。この”唯一神道”は、通説では神本仏迹説だとされる。
http://www.komatsu-c.ac.jp/~yositani/shumin2005-2.htm
吉田兼倶は、元寇を契機に反本地垂迹説に立脚した唯一神道を唱え、神道に
儒教や仏教をとりいれてその統合をはかった。
天孫をないがしろにした作品である
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ryoukan/center/center7.htm
● 清原宣賢(1475〜1550)
吉田神道の創始者ともいうべき吉田兼倶の三男で、儒教の経典の研究と教育
を行う明経博士、清原宗賢の養子に入り後継者となる。清原家の家学を発展
させ、和歌や王朝物語にも研鑽を積んだのみならず、実家の家学も受け継い
だ識者として知られる。応仁の乱(1467〜77)で消失した清原家集積の図書
を書写し、家学を再興した人物でもある。これらの書籍は現在、京都大学附
属図書館に「清家文庫」として収められている。
これで京都大学による邪馬台国論があった訳が判る惑わされていた事実